2024年03月10日

野田城の整備を行いました

ちさと郷土研究会では、2024年3月9日(土)に野田城の整備活動を行いました。


野田城本丸南東部の崖部分の地権者の方が市に土地を寄付されたことから、城の状況を見やすくするため、当会と市役所の文化財担当課、地域の方による樹木や笹の伐採を行いました。


チェーンソーや草刈機、伐採木をチップ化する機材を会員や地域の方が持参しての作業です。


野田城本丸の入口へ至る道路の樹木も伐採され、さっぱりしました。


作業によって、これまで見えなかった平坦地なども現れ、作業による効果が感じられました。
終了後

高低差のある中で木が倒れる作業。足腰の疲労もかなりなものでした。
ただし、まだまだ伐採が必要な箇所が多いため、当会では、今後も引き続き整備作業を行なっていく予定です。
見やすくなっていく野田城を、ぜひお楽しみください。  

Posted by ちさと郷土研究会 at 19:49Comments(0)

2024年02月11日

令和6(2024)野田城の戦い関連物故者供養会が行われました。

令和6(2024)年2月11日に野田城の戦い関連物故者供養会が新城市千郷地区にある大洞山泉龍院で、主催の地元の行政区長やちさと郷土研究会会員41名が参加し、開催されました。
供養会1

本供養会は、昨年が野田城の戦いから450年であったことを記念して開催され、今年も郷土の歴史を学ぶ機会として開催されたものです。
供養会2

供養会では、ちさと郷土研究会会員による講演も行われ、野田城の戦いの概要、野田城の戦いに至るまでの経緯、供養会の意義について解説があり、野田城の戦いの際には、地元領主が徳川方、武田方などに分かれて争ったことから地元の領主同士で争いが行われたことや1902年に地域で疫病が流行し、地元の長老が泉龍院の和尚に相談した際、武田信玄との戦いで亡くなった将兵を慰霊する提案があったことから供養会が行われていたことなどの説明がありました。
講演会の後には、供養会が行われ参加者による焼香が行われました。
供養会3

その後、野田城籠城の際の城主菅沼定盈などのお墓や大野田城など、地域のお寺や城址8箇所で献花が行われました。
地域の歴史を知り、地域を次代へつなぐ大切な会です。来年以降の開催の際には、多くの方のご参加をお待ちしております。

供養会4
菅沼氏3代のお墓
供養会5
大野田城
供養会6
豊島永徳寺
供養会7

供養会8
大野田怨親招魂碑
供養会9
泉蔵寺


  

Posted by ちさと郷土研究会 at 21:51Comments(0)神社仏閣

2023年06月30日

御前石道(ごぜんいしみち)

御前石道



「草鹿砥公宣というお公家さまが鳳来寺へお参りをする時」「本宮山へお参りする時」という書物に、
「山の頂上でお休みになって食事をした時、食卓代わりにした石が大きな石で、食事の接待をした人が徳定に住んでおった飯盛り行者という人で、御前の石と書く人と会席膳の御膳、御膳石と書く人とありますけども、それが御前石という石。」話があり、そこへ行く道を御前石道といいます。大きな山崩れがあり、今は御前石はありません。

なお、雁峰山へ登る道は3本あります。
・竹生神社の西を上がる御前石道
・白滝へ登っていく白滝道
・徳定と片山の境を登る長坂道
 
領主からのお触れ書が出て道造りを春、夏、秋の3回やれ。ということで、
白滝道は徳定と杉山
御前石道は、徳定、山村、今出平、杉山、石田、あいのまちと橋向
長坂道は、徳定、杉山、石田、新城
と、いうようなお触れが出て毎年3回道造りをやっていたようです。  

Posted by ちさと郷土研究会 at 08:13Comments(0)遺跡

2023年06月10日

建長寺遺跡

建長寺周囲



建長寺遺跡は旧石器時代の遺跡で、近くに荒井遺跡、神の前遺跡、弥生時代の諏訪遺跡などがある。


新城市がほ場整備事業前におこなった遺跡の範囲確認調査報告書には、建長寺遺跡から手捏ね土器※1、頁岩※2の剥片が出土したが、遺構の形跡が全くなかったと書いてある。

※1手捏ね土器:ろくろを使わない土器、お祀り用として用いられた
※2頁岩:約1700万年前に新城市が海の底だった時代に、海底に堆積した泥が固まってできた岩石で、本の頁(ページ)をめくるように葉理面に添て薄く板状に割れることからこの名がついた。産出する地層が中央構造線に近いため、ひび割れたり大きな塊が採れにくい。

建長寺遺跡は字建長寺と字荒井にあり、建長寺(寺)の方丈、舎利と同じ場所に当たる。残念ながら遺跡時代の痕跡はほとんど見つかっていない。現在、畑の中に石仏が祭られている。これは、舎利殿跡付近にあった石仏を圃場整備のため下段に移し南無阿弥陀仏の碑を添え今でもお祀りされているもので、遺跡時代の石仏ではないこの石仏をお祀りしている方によると、
・松の樹林の中に寺があり石仏があった。もう一体どこかにある筈だと言われている。
・この石仏はここに落ち延びてきた高貴な方(天皇)のものだと言われている。
・釣鐘は戦国時代に近くの八畳ほどの小さな池に隠されたため災いが起こった。
・建長寺は火の不始末で焼失した。ご先祖様からの言い伝えをきき、大切に、今でも欠かさずお参りされているという。


  

Posted by ちさと郷土研究会 at 11:12Comments(0)神社仏閣

2023年06月10日

伝 稲置府跡(いなぎふあと)(現 八幡神社)

稲置府


大化の改新以前、東三河が穂の国と呼ばれた頃、大和政権の役所『稲置府』が、現在の稲木の八幡神社に置かれていたと言われる。『稲置』は、大和政権時代の小区画の地方役人に与えられた官職(姓)の1つ。稲置府の吏員として、春田や服部の一族が来任した。春田は、墾田(ハルタ)を司り、服部は服織部(ハトリベ)を司り、民を導いたことであろう。  

Posted by ちさと郷土研究会 at 09:41Comments(0)遺跡

2023年06月10日

伝 班田府跡(はんでんふあと)(現 徳定寺)



※現在は徳定寺。
現在の徳定寺の境内には、7世紀半ばの大化の改新の頃の役所『班田府』が置かれていたと言われる。ここの南の田んぼに、「半田前」の地名が残っており、半田前ー班田前ー班田府前が連想される。また、班田府の役人の末裔は、「半田」を苗字としているという。更に、半田前の東には「阿賀地(あがち)」の地名がある。「阿賀地」ー「縣」。縣(あがた)とは、大和政権の直轄地。以上のことから、当時、この辺りは地方行政の中心地であった可能性がうかがえる。  

Posted by ちさと郷土研究会 at 09:37Comments(0)遺跡

2023年06月03日

須波(諏訪)神社

須波神社

天慶元年(938年)この地域はまだ稲木の入会原野で、稲木に長者屋敷があり、信州から来住した「依田氏」がこのあたり一帯を治め、同じく信州から来住した「諏訪氏」が、信州の諏訪大社を、勧請地主神として豊島に祀っていた。正安2年(1300年)依田氏に代わってこの地を支配していた「千秋氏」の命で豊島から滝下・鈴木・今泉・森下・鳥居の5軒が、稲木の入会原野を切り起こし移住したとき、現在の豊栄沢渡254番地に豊島の諏訪大社をこの地に分祀し産土神とし諏訪河原村とした。
建武2年(1335年)千秋氏に代わってこの地を治めていた「富永氏」は諏訪大社を崇敬(国内神明帳に従5位上須波天神座設楽郡と搭載)須波大社とし、社格が上がった。
永正3年(1506年)富永氏に代わり「菅沼定則」が野田館に入城した時、八幡社を氏神としたため、豊島の諏訪大社を諏訪の須波大社に遷座(移す)。
大永2年(1522年)豊島と諏訪の諏訪大社を合祀再興。社殿を改造し諏訪大明神と称す。
天正元年(1573年)野田合戦の為焼失、再健時に境域を拡張、今出平村が氏子に入る。
明治2年(1869年)須波神社に複称。明治5年に村社とした。
  

Posted by ちさと郷土研究会 at 20:36Comments(0)神社仏閣

2023年05月18日

つつみが滝(つつみがたき)

つつみが滝


源頼朝の母 由良御前が歌に詠んだといわれる滝である。

  百々目記の 稲荷の山の  ほど近く   つつみが滝の  水のうつ音   

Posted by ちさと郷土研究会 at 22:54Comments(0)名所

2023年05月18日

今出平城(こんでびらじょう)

今出平城


田峯城主菅沼定忠の家臣城所助之丞清庵が、定忠の息子竹千代を野田城に迎える時随従、主君竹千代が野田城に入城した時、その砦として、健児府跡地に修築を施して居住地にした。  

Posted by ちさと郷土研究会 at 22:46Comments(0)

2023年05月18日

神田遺跡(じんでんいせき)

神田遺跡


南に面した緩やかな斜面にあり、東側には川が流れる良好な立地にある縄文時代後期の遺跡。石器や土器などが出土した。  

Posted by ちさと郷土研究会 at 22:41Comments(0)遺跡